メモ
8月30日 ゲームのアメとムチ
最近流行りの艦隊これくしょん、略して艦これってやつを始めてみた。このゲームは公式によると
「艦隊これくしょん―艦これ―」は、駆逐艦や巡洋艦、航空母艦などの個性豊かな艦艇娘「艦娘」を収集・育成・編成して、あなただけの無敵連合艦隊を目指す、艦隊育成型シミュレーションゲームです。
とあり、駆逐艦やらを擬人化したものを集めるというとんでもない(と個人的には強く思う)コンセプトのゲームなのだがあまりの人気にサーバーの増設を重ね、それでも追いつかないという素晴らしい人気なのである。今までのモバイルマスター(私自身はやったことは無い)等のように、女の子のイラストが描かれたカードを集めるというゲームシステムは同じなのに人気な理由は、やはり課金を一切しなくとも十分に楽しめる、というより課金をしたら楽だが無課金でも苦痛に感じる程のデメリットが無いという点にある、と思っていたのだが、私にこれをオススメしたきた友人曰く「このゲーム敵の攻撃受けてダメージ喰らって中破以上になるとおひゃいはyいうしあsjldかひdヴいdv」とのことなので、一体どういうことかと思いやってみると、一定ダメージ以上になると服がはだけるというゲームシステムで、私の友人はここに惹かれているらしい。
あれ、こんなゲームシステム前にも無かったけな、と考えて思い出したのが「閃乱カグラ」という3DS及びVitaで発売された、無駄に胸を強調したゲームなのだが、このゲームも一定ダメージ以上で服がはだけるシステムとなっている。だが、この「一定ダメージ以上喰らうと服がはだける」というシステムは非常に上手いと思うのだ。というのは、「一定ダメージ以上喰らう」ということはデメリットであり、できる限り避けたいものであるはずなのだが、「服がはだける」というなメリット(これをメリットと思わない人が居るのも十分承知の上)を抱き合わせにすることで、デメリットがそこまで苦痛に感じなくなるのだ。といっても、この「服がはだける」というメリットはデメリットを打ち消してしまいゲームバランスを崩してしまうようなものではなく、「心情的な」メリットであり、「ゲーム的な」デメリットと抱き合わせても「ゲーム的な」デメリットはなんの影響も受けないのだ。考えて見ればほかのゲームにも心情的なメリットとゲーム的なデメリットを組み合わせたものがあって、例えば「デモンズソウル」、「ダークソウル」は死んだ時にダイイングメッセージを残すことが出来て、例えば罠にかかって死んだ時に「この先に進め」というダイイングメッセージを残して、どこかの誰かを道連れにすることもできれば「罠があるぞ」と注意を促して救う事もでき、また自分が他人のダイイングメッセージを見た時もこのダイイングメッセージが本当かどうかと悩んだりすることができて、「死ぬ」というデメリットに、「誰かにダイイングメッセージを残す」というメリットを抱き合わせにしている。ほかにも「みんなでスペランカー」は、みんなで協力する「みんなでスペランカーモード」では、昔のスペランカーの如く死にまくるが、一人で攻略する「ひとりでスペランカーモード」では、昔のスペランカーより若干丈夫にしてアクションゲームとしてのゲームバランスを整えたものとなっている。これは「みんなでスペランカーモード」では死ぬことですら、誰かがその死ぬ様子をみることによりネタになり、そこまで苦痛を感じないという配慮である。逆に、「ゲーム的な」メリットに「心情的な」デメリットをかぶせることも出来る。名前を忘れてしまったのだが、横スクロールのアクションゲームで主人公の女の子は銃を持って進んでいくゲームがあるのだが、難易度は結構難しくバンバン死ぬのだが、ステージ区切りごとに復活できるのでそのままではあまり緊張が無い、のだが、死んだ時の表現がグロい上に多彩で、プレイしている側としては「なんとしても死にたく無い」という気にさせてくれ、緊張感が生まれる。「その場で復活できる」という「ゲーム的な」メリットに、「死んだ時の表現がグロテスク」という「心情的な」デメリット(一部の人にはメリットなのも承知の上)を被せているのだ。
これからゲームをする時やゲームのプレイ動画を見たりする時にゲームのメリットとデメリットに注目して眺めてみるとちょっと面白いかもしれない。
8月24日 スクール水着
スクール水着について書いてみないか?という企画が某所にてありまして、こうやってテーマをくださるのであれば喜んで書いちゃいますよね。
スクール水着というと既にコスプレモノとしても一ジャンルを確立しており、それには多分煽情的な意味が多分最も大きいのであろうと予想するだが、それにしてもここまでの人気はある種異常では無いだろうか、と思うのは正直な話露出度ではビキニ等の水着のほうがよっぽど上であるし、逆に密着度的な話であれば体に密着するスーツのようなもの、なんというかわからないが、全身タイツのようなアレのほうがきっと体のラインクッキリでスクール水着よりは煽情的になりうる気がする。にも関わらずビキニよりも、全身タイツ(的な密着しているアレ)よりも、スクール水着のほうが世間的には流行っているし、評価も高いように思えるのだ。これは一種の異常性癖を日本人男性(及び女性)が集団で獲得しているということで、奇妙だ、と考えるも、日本人男性よりもスクール水着に何かしらの付加価値がついていると考えたほうが自然だな、と思いスクール水着の付加価値を考えてみると、まず思いつくのだ「限定性」である。ご当地限定、期間限定など人は様々な限定に弱いというが、スクール水着も限定「学生の間」もしくは「若い間」に限定されており、一種の限定生を獲得していると言える。特にスクール水着は「学校」という地域まで限定する為、更に限定性が強い。それに加えて「誰もが身近に感じる」、というのも共学校に通う人であればほとんどの人が少なくとも小学生の時は直接目にしたハズである。スクール水着は一種の制服、というのも学校で普通の水着を着用することは許されていない為、半ば半強制的に着るというのだからほぼ確実と言って良いだろう。水泳の身体の発達への有益性を考えれば学校体育と水泳は切っても切り離せぬ関係であることを考えると、これからも日本人は「スクール水着」を身近なものとし続ける、いわば誰もが着る、もしくは見ることが出来る日本人の心と言って良いだろう。
しかし、ここまで書いておいてなんだが、スクール水着という一種の服装をテーマに文章を書こうとするとどうしてもそのファッション性に注目せざるを得なくなる。世界でも義務教育に水泳を取り入れている国は珍しく、スクール水着という概念も多分日本ぐらいにしか無いはずである。それが功を奏しているのかはわからないが、近年は微妙に低迷期に入っているが日本は昔から水泳は強かった。その時点で日本ならではという結論はあながち間違いでは無いのかもしれない。とはいえ、ブルマーが廃止になった前例を考えると、スクール水着のファッション性に惹かれるのは良いが現実で行動に起こすのはよく考えたほうが良いだろう。
8月23日 帝国陸軍情報部第3課<パンプキン・シザーズ>
戦争があった…
永きに渡る戦乱は社会を腐敗させ
あらゆる悪を蔓延させた
――だが――
それら“戦災”を討つための部隊がここに存在する
「情報部の吹き溜まり」
「予算獲得のためのお飾り」
「平和でお気楽」
そう言われながらも、彼らは“戦災復興”を目指す
如何な外皮をも切り裂き断ち割る、頑強な刃の名の下に
その部隊の名は――
帝国陸軍情報部第3課【Pumpkin Scissors】
オススメの漫画の紹介再び。この漫画は3日前から読み始め、現在9巻を読み終えた所だがとんでもなく面白すぎて、最新巻が17巻なのにも関わらず紹介してしまう面白さ。とりあえず何も考えずに書店で買ってしまえば良いと思うが、簡単にあらすじを説明すると、
フロスト共和国と帝国の戦争が「薄氷の条約」によって停戦を迎えるも、飢餓、疫病、兵隊の野盗化等の「戦災」と呼ばれる戦争が帝国内で続いた。それらを解決する為に陸軍情報部に戦災復興任務の為の第三課を設立。しかし、その現状は帝国陸軍第三課とは軍部の予算獲得の為の名目上の組織であり、戦争での不満を抑える為のプロパガンダ的存在でもあった。形式だけの組織に属しながら、戦災復興を現実に実行する彼らは、戦災の中でも人災、かぼちゃの厚い皮のように固い「暴力」や「財力」や「権力」で身を守る悪を切り裂く自らを「パンプキンシザーズ」と呼ぶ。
てな感じなのだが、正義とは何か、公平とは何か、を問い、それを実行するが故の障害、孤独、それらをも食い破る信頼関係とヒューマンドラマ的にも熱い上に、特許問題や執政部と軍部、そして軍部の中でも1課2課3課、兵器局、帝立科学研究所の軋轢を描き戦争ものとしても面白い上に、過去に不可視の9番と呼ばれる特殊部隊の属していて、対戦車猟兵部隊、つまり歩兵でありながら戦車を倒してしまったりだとか、騎乗からの刺突用の両刃剣を鉄の靴で蹴り運用したりだとか、画的にも興奮させてくれる上に、出て来るキャラクターが一人ひとり活き活きしていて覚えてしまえるのはもちろん、名もない民間人までもが苦悩した上で障害を乗り越える姿を描いてくれるという、オススメできるポイントがありすぎて困ってしまう漫画という訳なので、今すぐ書店で買うかamazonで買うと良いと思う。
8月21日 献血のすゝめ
暑すぎて毎日が続く中、消しゴム彫るのはまだしも、PCを付けているとPCがオーバーヒートしてダウン、もう一度電源を入れても付かず、怪訝に思い、後を開けると焼き切れていて少し笑えない出費を被りました。お久しぶりです。リクエストの久留里ちゃん、既に5個作ろうとして失敗し、そろそろ6個目に入っていますので、もう少しお待ちいただけたら完成品を披露できるかもしれません。自信は無い。
果てさて、こうも熱いと電気屋で涼むというのも良いのだが、現代に、ジュース飲み放題、お菓子食べ放題、ナース服(多分)に身に包んだ女性に(極稀に誠実そうなイケメンの男性に)ちやほやされる、という天国のような場所があり、しかもお金を払う必要は無い。必要なのは時間と身分を証明するものと、健康な体、具体的に言うと血を200ml、或いは400ml抜いても倒れない程度の体であり、それらを持っているだけで上に挙げたサービスはもちろん、場所によっては抹茶を頂くことが出来たり、或いは似顔絵を描いてもらったり、或いは鍼灸、マッサージのサービスを受けられたり、そして待ち時間はそこに置いている漫画、雑誌、本を読むことが出来るのだ。素晴らしい。まぁ、その際に血を献上する必要があるのだが、その程度である。血を献上する時にはもちろん注射針、しかもかなり太めのものを腕に刺す訳だが、たったそれだけで色々なサービス受け放題、更に通常ではお金を4000円程度払って受ける血液検査を無料で受けることができるのだ。素晴らしい。
この際に是非気をつけていただきたいのが、血を献上する場、言うなれば献血ルームをしっかり厳選して欲しいということである。「献血」でグーグル先生に尋ねると色々情報が出て来るが、自分の住んでいる地域の献血ルームの中で、最も自分が好むサービスを行っている所に向かったほうが色々満足できる上に、せっかく足を運んだにも関わらずその日は休みであった、等という目に遭わずに済む。献血車というものもあるが、ここで血を献上するよりも、献血ルームで血を献上したほうがはるかに設備が充実しており、冷房も適度に効いており、サービスも充実しているので、よほどの事情が無い限りは献血ルームを選ぶべきである。某東京のビッグイベントに来る献血車では、アニメ関連とコラボした限定ポスターが貰えることもあり、人気だと聞くが、そういう理由が無い限りは献血ルームを選ぶべきであろう。但し、一つ気をつけておくべきなのは、一度献血を行うと、400mlだとその後3ヶ月程は血を献上することは出来ないという点で、イベント関連の献血車で献血し、何かしらの限定記念品を狙う人は留意しておくと良い。貴方も明日から血を献上する予定を建ててみては如何?
8月12日 スタンプ過去作
web拍手で
>>あとできればでいいけど今まで掘ったやつも見たい(一部抜粋)
との声があったので、作ったの(個人名を彫ってしまった一作目を除いて)全部公開します。
左上:「インフィニットストラトス」より「シャル」
友人のリクエストを受けて掘りましたが、自分なりにはまぁまぁ。六作目。その友人の評判は良くなかったので善処します。
右上:「ポケットモンスター ルビー・サファイア」より「レックウザ」
掘ってる時は結構できてる感触だったんですが、捺してみると出来が悪かったタイプです。細かい芸当に挑戦したくて彫ってみましたが、手を出すのが早すぎたようです。五作目。
中央:「逆転裁判」より『「異議あり」の吹き出し』
ハンコとしては最も実用性が高そうなモノですよね。コレ。異議ありの「議」の右上部分を彫り過ぎて真っ白にしてしまったのが心残り。気が向いたらもう一回彫る予定。四作目。
左下:「ぷよぷよフィーバー(SEGAぷよ)」より「ユウちゃん&レイくん」
二作目。自分では今までの中で最高の出来。線が太いもののほうがハンコにすると映えるというのはあるにしても、これ以外がひどすぎる感は否めないかもしれぬ
右下:「ポケットモンスター ダイアモンド・パール」より「ルカリオ」
三作目。目が細かすぎて繰り抜いてしまってどこに顔があるのかわからなくなった。細かいのに挑戦するとこういう目に遭うということを三作目で学ぶべきだったのに五作目を見ればわかるとおり、過ちは繰り返されるようです。
と、まぁこんな感じです。後のサインっぽいのは、なるけみちこさんのサインです。うへへ。リクエストは引き続き募集しておくので、web拍手で希望を送るとそのキャラクターを彫るかもしれません。
8月10日 スタンプスランプ
スランプに陥っているかと思いきや消しゴムハンコやってみない?と誘われて熱中しているだけの模様。意外と初心者でも上手く彫れるもので、私がかけたのは315円だけですがまぁまぁ良い出来だと自負できるものができました。
100円ショップに行って、「デザインナイフ(デザインカッターとも。彫刻刀の三角刀ような先が斜めになっているカッター)」「トレーシングペーパー(半透明の絵を写すやつ)」「消しゴムハンコ用消しゴム(セリアという100円ショップは売っていました。手芸コーナーに大体ある。)」と、まぁこの3つを揃えればすぐにでも始められるのですが、消しゴムハンコ用消しゴムはやはり掘りやすいのでオススメです。デザインナイフじゃなく普通のカッターや彫刻刀のV字の刃の奴で掘る人も居るようですしこのへんは色々試すと良いと思いますが、一応全て挑戦してみた結果一番楽なのはデザインナイフでした。トレーシングペーパーは絵が描ける人は要りませんが、絵が描けない人はハンコの図案の元となる絵を用意してトレーシングペーパーで写す必要があります。で、写し終えたトレーシングペーパーを反転させて消しゴムに押し当て、爪で擦りつければ消しゴムに結構クッキリ写ってくれるので、それを元に掘ります。絵が描ける人は普通の紙に書いても擦りつければ良いと思います。で、掘るだけです。簡単でしょう?掘る際に気をつけることは、こう、凸部分がハンコのインクが付く部分となり、凹部分がインクが付かなくて白い部分となるのですが、もちろん線の部分を凸部分にしましょう。線の部分を凹部分にすると上手くできてもなんか微妙な気分になるのでオススメはしません。凸部分の凸の字のように直角に掘るのでは無くて、√のように斜めに掘ると安定するようです。説明が下手なのでチャレンジしてみようと思った方はググると大量に偉大な先人の知恵に触れることができるので、ググってみると良いかと思います。
で、何か消しゴムハンコで掘って欲しいキャラクターや絵等があれば言ってくだされば掘るかもしれません。画像URLでこれ掘れ!っていうのでも構わないですし、もやもやとした要望でもなんでもweb拍手で希望を送りつけると良いかもしれません。
7月31日 高杉さん家のおべんとう
高杉さん家のおべんとう、というのは漫画の名前である。ざっとあらすじを説明すると、昔家を飛び出して以来連絡の取れなかった姉が亡くなり、その娘の久留里(くるり)を引き取ることになった主人公、温巳(はるみ)が、お弁当を通じてお互いの距離を縮めたりする漫画、なのだが、主人公は地理学の博士号を取得しており、漫画を読んでいると地理学に無駄に詳しくなれる他、よくある「グルメ系」漫画かと思いきや、実のところは登場人物同士が地理学的な観点やらお弁当やらを通して心を通じ合わせる所がメインであり、読んでいて全く飽きない。また、お弁当についてもグルメ系というよりは節約系、というのも引き取った久留里ちゃんが節約大好き美少女で、スーパーの特売を欠かさずチェックし、チラシの裏でメモ帳を作ることに「もは~ん」とする感じの正確の持ち主であるが故に、お弁当の内容も自然と安価で、見慣れたものになっている。また、そういったことはどうでもよく、可愛い少女が見たいだけだ、という人にも久留里ちゃんがとてもかわいいのでオススメできる。
お弁当、といえば最近自炊していない。というのもかき氷事件以来、素人の手で作ってしまうとどうにもなんかやばいのではないか、みたいな恐怖に襲われてご飯が作れず、外食やカップ麺や冷凍食品やらを使って毎日を送っている。しかしながら、この漫画を読むと弁当作ろうかな、と思えるのだから相当すごいモノになっている。一巻読み終わると結構満足感があって、他の漫画一冊読み終えるよりも実際時間がかかっていて、続きは気になるけど、でも満足もしている、と漫画を読み終えた時に最高の状態を提供してくれること請け合いなので、今すぐ近くの書店で「高杉さん家のおべんとうください」と言いにいくと良い。その書店の店員さんの名前が高杉で、お弁当を手渡してくれる事態に陥った場合は是非web拍手かなんかでご報告してくだされば、逐一その様子を掲載する予定なので是非どうぞ。
7月30日 差は力
限定商法というのは、限定して売る、つまり供給量を抑えることにより希少価値を高めることにより、通常の販売方法よりも少ない量をより高い値段で売って儲けようとする商法のことであり、有名なものに初回限定特典等がある。初回限定、つまり発売時に一定数だけ通常版とは別に初回限定版を用意し、通常版には無い特典等を付け、初回売上を安定させようとするものであるが、この限定商法にはある欠陥がある、というのは、欲しいと思っている人の手にその初回限定版の商品が渡らない、というものである。この商法のおかげでゴーストトリックという素晴らしいゲームの初回限定版特典のサウンドトラックに7000円払う羽目になったのだから、その欠陥はある意味力といって言いだろう。通常版を買う人とは別に、初回限定版にはいろいろな特典を付け「差」を付けて売ることにより、初回限定版は少々高くても結構売れるものである。
メイドインチャイナ、中国産の商品が現在多く日本に出回っており、その理由が中国の人件費が安いということも常識と化しているが、これも「差」という点で見れば、日本の人件費に比べ中国の人件費が安いという差の持つ力がそうさせている。
考えてみれば、商売というのは安く手に入れて高く売るのが基本である。大航海時代に商品がこぞってインド等当時値段が高騰していた香辛料を安値で仕入れ、持ち帰って高く売っていたし、世界恐慌に対抗する為のブロック経済は、関税をべらぼうに高くすることで輸入品の値段を吊り上げ、自国で大量生産した製品諸々のみを植民地した国に売りつけることにより無理やり経済を回したのだが、ここでも植民地という植民地では大量生産することができず「征服国で大量した製品諸々」を購入するという「差」が力となっている。自国では世界恐慌の影響で経済活動が極端に少なくなり、何も売れなかったことから考えるとやはり「差」と言える。資本主義そのものが資本家階級と労働者階級の「差」によって回っていると考えることもでき、そう考えると現在のブラック企業や社畜の登場というのも必然とかんがえられるかもなぁ、なんて思ったりしている。
限定商法の悪口を書こうとしたらわけの分からないものが出来上がっていたが、とりあえず社畜の登場は当然という落ちない落ちに終わったことをお詫び申し上げます。
7月28日 わからないことを考える
どうでもいいですが、文章が書けなくなってしまって非常に困りました。
うろ覚えの記憶だが、人と動物の大きな違いの一つに「未来のことを考えることが出来るかどうか」というのをテレビで見たような気がする。が、人って実は未来のことなんてろくに考えちゃいないのでは無いのか、と思ったのは私が病院に入院したからだ。その時に私が入院という事態を一切考慮せずに生活していて現在いろいろと忙しいのは私が間抜けなだけなのかもしれない。だが、普段の事を考えても、明日のことを考えるのは簡単だが、1年後、5年後、10年後、100年後のことを考えるのは中々大変である。昔小学校だか中学校だかで「~年後の自分へ」という手紙を書かされたが、全くその通りの自分にはなっていないし、大阪万博の「人間洗濯機」を見ても未来のことを考えるのは難しいことがわかる。どう考えても5年後の自分が何をしているのかわからない。病院のベッドで、今まで自分が、「今」死んでしまったらどうなるか、ということを考えたことは無かったな、と思ったりした。「わからない未来のことを考えるより、今のことを考えろ!」という言葉は良く聞き、私も結構その言葉に納得していた人だったのだが、この入院を通じてそれは単なる「逃げ」で、本当に「今」と向き合うのであれば、それは未来のことを考えることに通じるのでは無いかと思う。今どうすべきか、どういう行動をすべきか、ということは結果を元に判断している。結果という言葉では言葉不足かもしれない。未来にどういう影響を与えるか、ということを考えているはずで、例えば「結果なんて気にせずに、今はそれをやらないと後悔する」という意見であっても、「未来の自分は後悔する」という未来への影響を考慮しての言葉である。逆に言えば、未来を考慮せずにしてしまう行動は後に振り返った時に、良い判断だったと言えることは少ないはずだ。
わからないことは考えるのが苦しく辛いことだが、それでも向き合わなければならないと感じる。
7月25日 盛りソバ食べまくりアイランドの長い午後
お待たせ致しました。ようやく病院から復帰し、胃も持ち直し、体重も以前に比べ-3kgまで戻って参りました。明日からはまたいつもどおりの更新になる予定です。この数日間、何があったのかをかいつまんで説明すると、かき氷を食べて、お腹を下し、栄養が取れず、その後家でふらふらになりつつ、栄養が取れず夏バテか、等と勝手に思い込んでおりました所、一向に治る気配が無いというか、食べ物を食べても口から戻す感じで、これは結構不味いのでは無いか、と思い、ゲームやらやっていたのを止めて横になると、一切の気力が失われ、食欲も失せ、水を飲みトイレに行くことを繰り返して過ごして居た所、栄養失調になり、友人がお見舞いに来てくれた時には結構やばい感じで、病院に連れて行ってもらい、点滴を喰らってようやく回復した!……と、思いきや弱っていた所に色々病気が併発してこの有様です。素晴らしい。私がダウンしている間にドラゴンズクラウンが発売してしまい、先行試写会に行った時の話を書きそびれてしまったのが心残りです。では今日の所は色々と用事が溜まっているので短めですが失礼致します
7月17日 一寸先は闇
まさか病院にお世話になって点滴打つ羽目になるとは思いませんでした。持つべきものは友、と言いますが、まさしくその通りで、お見舞いに友人が来てくれなければ結構やばかったかもしれません。更新したいのは山々なのですが、もう少しお待ちください。web拍手で心配してくれている方もどうも有難う御座います。それでは、失礼致します。
7月14日 ばたんきゅー
かき氷は夏の風物詩だと唱える過激派の一人私の友人の中にもおり、その友人がかき氷の出店をやるということで、私も喜んでその出前に言ってかき氷を食べに食べに食べまくったのはいいもの、みごとにお腹を下し、食道器官が壊滅的な被害を受け栄養が取れず、そのまま夏バテのコンボを叩きこまれ、毎日の更新記録を断絶させてしまい無念極まりない。皆様、暑い日々が続きますが冷たいモノには気をつけてくだされ……。でも、かき氷は美味しかった。カルピスのシロップが原価を見ても一番高いのでオススメ。ぐふっ。
7月12日 反語で物申す
例えば冒険をしているとして『樹海の中を進む君たちは、色とりどりの花が咲き誇り、甘い香りがただよう広間にたどりついた。このまま、花の香りを楽しみながらここで休んでもいいし、この場から立ち去るのも自由だ。』と言ったような状況において「休むべきだ」と言わずに「休まずに進むべきなのだろうか?」と言うような反語の形で意見を言うのは非常に賢い方法である、というのもこの反語というのは大概の場合、その人の本音は「休むべきだ」と言うようなものだが、本当にそうなのかはわからず、本当の本当に疑問に思い言っている可能性も無きにしも非ずと言う、言わば退路を確保できており、責任逃れが非常にやりやすい意見の述べ方なのだ。仮に意見通りに休み、毒吹きアゲハ三体に襲われ全滅としたとしても、「休まずに進むべきなのだろうか、ともう少し深く考えておけばよかった」等と言えば良いし、何事も無く花の香りの中でリラックスできたならば「ほら、私の言った通り休んでよかったろう?」と大きな顔をすることができるし、意見が通らず休まずに進んだ場合に、休まずに疲れが溜まり全滅したとすれば「私が提案した通り休んでおけば良かったものを」と嫌味を飛ばせ、休まずに進み、無事何事も無く冒険が進んだとしても「私の心配が心配に終わって本当に良かった」と過保護な良い人を振舞え、反語の形の意見の述べ方がいかに素晴らしいかということは十分に伝わったと思う。
このような反語の意見の述べ方は責任を取る必要が無いということで素晴らしいと言ってきたが、逆に言えば反語には責任は取れないのだ。議論や話し合いにおいて、責任を持った発言をしたいのであれば反語の形を取るというのは、結構卑怯じゃないか、と私は思った。確証は無いが言っておきたい、という場合には使っても良いと思うものの、安易に反語の形で意見を述べてよいものだろうか?
いや、安易に述べるべきではないだろう。
7月11日 得意分野特化型インターネット
インターネットというメディアは自分の好きなもの、得意なものには強いが、逆に自分の嫌いなもの、苦手なものにはめっぽう弱いといわれる所以は情報を受取るか受け取らないか決めるのは自分であり、自分が好きなものはGoogle先生に尋ねるなりして延々と追いかけ続けることができるし、逆に自分の嫌いなものが目に入った時、右上に表示されているバツボタンや左上に表示されている戻るボタンをワンクリックするだけで情報を遮断することも出来る。インターネットでのコミュニケーションにおいても自分と反りが合わないと思った人が居れば簡単にその人とのコミュニケーションを一方的に切ることが可能であり、Twitterのブロック機能はその最たるモノだと思う。このインターネットの「得意分野に強く苦手な分野には弱い」という特徴は素晴らしく、面倒なコミュニケーションや不快な情報を簡単に遮断出来、自分な好きなもののみを周りに置くことができる。その反面、面倒なコミュニケーションをせざるを得ないことから学べることであったり、不快な情報だと思っていたことがその後意外なことで役に立つことも実際には多々あるが、その多くの機会を失ってしまうということでもある。具体的にいうと、インターネットをしていると新たな趣味を増やすのは難しい。というのも、インターネット上では自分の同じ趣味嗜好を持つ人間ばかりが集まることが多く、そうなると新たな趣味へ繋がっていくのは非常に難しく、また自分の好きな情報のみが集まりやすく、自分の興味の無いことを知るのは難しい。面白い情報のみを載せるまとめサイトが好きなユーザーがソマリアでの紛争について知るよしも無く、ゲーム総合ニュースを見ているユーザーがハヤカワSF大賞受賞作品が何であるか知ることは難しいということで、それがインターネットではなく現実であれば、例えば友人や上司や先生や親等からたまたまPRESS STARTというファミ通主催のゲーム音楽をオーケストラで演奏する催しを聞くかもしれないし、電車につり革に付いている広告から芸能人同士のスキャンダルを知るかもしれないが、インターネット上のみではそれが難しいということである。インターネットで一度に摂取できる情報量は現実とは半端ではない程多い為、自分の興味のない情報が視野の中に入ったとしても飛ばしてしまうというのも大きな要因である。
繰り返すことになるがこれらの性質は悪いとも良いとも言えない。ただ、インターネットで得られる情報は偏りがちであることを忘れてはならず、むしろインターネットとは無縁の人生を送っている人も結構な割合で居るということは意識しておいたほうが良い。
7月10日 祇園祭
祇園祭がいよいよ始まるようで(実は既に始まっているのだが)特に言うと7月10日からは山鉾建が始まる。盛りソバ食べまくりアイランドから京都を訪れたい気持ちは山々なのだが、盛りソバ食べまくりアイランドは絶海の孤島。ここを脱出することができた人間はスオードのアスタ様ぐらいしかおらぬので、なんとも躊躇われる。祇園祭とは何かというと、毎年7月1日の「吉符入り」から31日の疫神社「夏越祓」までの1ヶ月間の神事のことをいうので、つまり本当の開催期間は7月1日からなのだが、世間一般的に観光客が集中するのは14日~16日の宵々々山・宵々山・宵山、そして17日の山鉾巡行、神輿渡御・神幸祭である。歴史は古く、平安時代の疫病を祓う為の祇園御霊会が始まりで、1000年以上の歴史を誇っており、実際に訪れるとそれなりに感心できる貫禄を見せつけてくれるのだが、実際に訪れないと分からない貫禄と共に、実際に訪れるからこそ味わうことになる、人の多さ、はまだ祭りだということで良いにしても、あの炎天下の下蠢く人混みの中で山鉾を目指して彷徨うのは中々辛いものがあり、そこまで興味が無い人は写真で十分と考えることもできるが、最初に書いた「山鉾建」というのが10日~14日にかけて行われるが、これが人が少なくてオススメなので紹介する。
山鉾というのは多分ニュース等で見てご存知だろうが一応簡単に説明しておくと、神輿のような、といっても神輿等では無く車輪が横に付いており、また「山」鉾と言うぐらいに背が高い、動く無駄に縦に長い神社のような何かである。これを、組み立てるのが山鉾建で、普段はバラバラにして部品ごとに保存しているのだが、明日から路上に部品を出して組み立てる作業が始まる。山鉾が通る道路は電線が跨がないようにしているぐらい背が高いこの山鉾を、螺子や釘等を一切使わず、完全に組み立て、つまり凹凸を組み合わすことにより建てるという匠の技を目の前で披露してくれるという訳で、これには人がそこまで集まっておらず、どちらかというと地域の住民が集まって頑張って組み立てているのだが、別に外部の人の観光を断っている訳では無く、むしろHPに乗せている程度には観光客を歓迎しているようなので、人混みが嫌だけれども祇園祭の山鉾を見たいという人は明日から4日間の山鉾建は中々の狙い目になると思う。また、組立終わった山鉾を実際に曳けるかテストする「鉾曳き初め」は12日~14日なのだが、これは更に外部の人大歓迎で、外国人だろうが女人禁制だろうが関係無く誰でも山鉾を曳け、曳いた人には14日からの組立終わった山鉾の上の部分の入場料金の無料券をくれるという太っ腹なことをやってのける。「鉾曳き初め」は体感型で「山鉾建」は見てすごい感じで、どちらも人が少なめであり、どちらも中々オススメである。祇園祭が、というか京都という町を含めて私はかなり好きなのだが、その中でも京都らしいイベントの祇園祭。是非とも近くに住んでいる人は行ってみて欲しい。
7月09日 KORG M01D
シンセサイザーが手のひらサイズに収まる時代は既にDSの時代に来ておりまして、それがKORGから発売されていた携帯ゲーム機、DSで使えるシンセサイザー、KORG DS-10やらrytmixでKORG M01等あったりして、手のひらサイズで出来る作曲なんて、等と侮っていると、耳コピからオリジナルまで素晴らしい作品が大量に見つかって驚いたのですが、私にはその驚きを伝える程の文章力が無いので、ここまで読んだもあなたにも驚いてもらうべく、動画を貼る。ニコニコ動画にしか良い感じのが無いのが無念。
如何でしょう?と私が自慢できる事では無いのは重々承知、しかしまぁDSで作曲ができることもそうだが、それよりも音がなんとも惹きこまれる。その理由がKORG M1という往年のアナログシンセの音を出来る限り再現しようとしたからとあり、納得した。で、そのKORG M01は限定生産で、その後再販は無かったのだが新しく3DSで帰ってくるとなり、発売は7月10日の午前10時ごろで、価格は3000円となる。で、作曲してみた方は是非ともご一報ください。全力で褒め倒すレビューを致します。
私、このテキストサイトを除いてなんらかの生産というものを全くと言っていいほどやっておらず、なにかを作れる人に憧れ、尊敬し、五体投地しながら二礼二拍手一礼で信仰の意を示していた訳だが、このようにテキストサイトを作ってみて思うのは、想像以上に何かモノを作るというは疲れるということで、こんな簡単なテキストサイトでもこんなに苦労するのであれば、彼らクリエイターと呼ばれる人種は一体何なのか、神か、って改めて思う今日この頃。私は挑戦して挫折しましたが、あなたも簡単に神になるチャンスが目の前に来ており、これを機会に作曲してみてはどうでしょう?
公式サイト:KORG M01D for nintendo 3DS - DETUNE Ltd.
7月08日 ジャンル仕分け人
ジャンル分けというのは非常に難しく、具体的な例として音楽のジャンルを挙げてみると、クラブミュージック系の音楽のジャンル分けというのは明確な基準も無い上に膨大なジャンルの数を誇っており、ハードコア、ハッピーハードコア、ダークコア、スピードコア、等とコアがつく音楽ジャンルだけでも山のように有り、クアッドコアですかなんなんですかとツッコミを入れたくなるほどだ。更に言うとリキッドファンクとドラムンベースとドリルンベース等は派生音楽ジャンルとは言え私には全く区別がつかず、私が下手に世間の目に触れる所で「ああ、あの音楽のジャンルはアレだよね」なんて言おうものなら「何言ってんだハゲ、あの音楽のジャンルはコレだろうが!」「ああん?耳が腐ってんのか?あの音楽のジャンルはソレだろうが!」「ええ度胸やなワレ、あの音楽のジャンルはドレに決まっとるやろ!」と議論を通り越して刃傷沙汰に及ぶ程であり、この事態を解決するにはジャンル仕分け人が必要なのであるが、ジャンル仕分け人の独断でジャンルを分けたとしてもそこらの人が納得するハズも無く、「その曲はマキナな訳ねぇだろうが!!!」と殴りこみが入って初代ジャンル仕分け人の命も3日程となる運命が目に見えているので、解決する方法としては誰もが納得するジャンルの仕分け基準を用意すれば良いという結論に至ったという所である訳ですたい。
では例に挙げた音楽のジャンルの明確な区別を決めようと思うが、もちろんのことながらそんな区別があるなら皆それに従っているハズでそんな便利なガイドラインのようなものは無い。で、ここで考えるべきなのはどうしてそのようなジャンル分けが発生したかと言うことであり、それについて考えてみると、わざわざよくわからないジャンルで分けていくは、分ける必要があると考えた人が居るからである。では、どうして分ける必要があると考えたのかというと、ある曲Aとある曲Bがあった時、誰かにその曲の内容を説明する時、「Aの曲もBの曲も四つ打ちなんだけれども、Aの曲はメロディー重視でキック音も軽めでふんわりした感じでキラキラした感じで、Bの曲はメロディーはあんまわからん代わりに疾走感と没入感があって聴き込める感じですがな」と言ったとしても相手の反応は「日本語でおk」となるのが関の山である。そこでジャンル分けの登場である。ここで話し手と聞き手の間がお互いに「ハウス」というジャンルがどのような音楽を示すのか、「トランス」という音楽がどのようなジャンルを示すのかを知っていれば「Aの曲はハウスでBの曲はトランス」と言うだけで一発で意思伝達ができ、素晴らしき哉ジャンル分け!となる訳である。で、音楽がこのように山ほどジャンルが出てきた一つの原因に音楽は文章で説明するのが非常に難しいのが一因だと思っており、どういうことかというと先程例に挙げた通り音楽を口頭で説明するのは非常に難しいが、ジャンルを沢山作り、話し手と聞き手が実際色々なに音楽を聴いて、この音楽はこういうジャンルであの音楽はああいうジャンルか、という共通認識さえあればそのジャンルの音楽においては瞬時に意思伝達ができるという訳である。
やっと話が本題に戻ってくるのだが、例に挙げた音楽のジャンル交々で言いたかったのは、ジャンル分けは「文章で説明すると長くなったり、説明自体が難しいものも互いにジャンルという共通認識を持ってさえいれば意思伝達が簡単になる」という利点の元にせっせとジャンルが増えてそのように分かれていっているのであり、実のところジャンルだけではなく言葉全体にも言えるような気がするが、ジャンルに至ってはその性格が顕著に表れている。冒頭に出てきたジャンルでもめているのは互いに共通認識の相違があり、それが衝突しているだけにすぎないのだが、ジャンル分けというのは先に示した通り、「円滑な意思伝達のため」であるから、実を言うとジャンルというものにそこまで拘る必要は無く、伝われば良いのだ。これから先、色々なジャンルに出くわすであろうが、そのジャンルが何を伝えようとしているのかということに焦点を当てればジャンルに翻弄されることも無く、またジャンルを仕分ける時もそういったことを意識してみると良いのではないかと思う。このサイトが誕生するきっかけとなった「VIPでテキストサイトブームをまた引き起こそうぜwwwww」という所で自らをジャンル分けして登録するリンク集が出来たようなのだが、ここまでジャンル分けについて書いたにも関わらず私はこのサイトのジャンルをどう分ければ良いかと思案中であり、登録するのは暫く後になりそうである。
7月07日 書くことが無いことは無い
いまの所サイトを始めてから毎日更新し続けており、もはや更新すること自体が義務となり私を縛っているが、私はそれも大事というか、毎日更新することに執着し始めたことで毎日更新できるならばそれも良いと思っている。で、毎日書くことがあるのかというと、書くこと自体は山のようにある。私は書くジャンルを明確に定めている訳ではないので、日記形式にしても良いならば今日あったことを朝起きてから今こうして文章を書くまでの行動を羅列し、その時感じたことも交えながら書けば立派な文章になるだろうと思う。仮に一日中家に篭っていたとしても、朝ご飯昼ごはん晩御飯、その日あったニュースの感想、何もやる気が起きないという気持ちを書き綴ることができると考えれば、書くこと等山のようにあり、むしろ全て書ききることのほうが難しい。だが、私は毎日のように書くことに悩んでいるし、私以外のテキストサイトを運営している人も毎日書くことに悩んでいるように見える。それは、毎日面白くもない文章を書き散らしている私でも、より面白く、より印象に残り、より読んだ人に影響を与え、時にはより軽く流し読みできる文章を書きたいと願っているからで、ただ文章を書いて毎日更新すれば良いと思っているからではないからで、きっと私以外の人もより良い文章を書こうとして悩んでいるのだろうと思う。書くことは山のようにあるが、より良い文章を、不特定多数の人に見せられる場に載せるに足ると判断できる文章を書くというのは中々難しく、だからこそ文章を書く人達はネタが無いと苦しみ、もがき、そこから面白い文章が生まれたり生まれなかったりして、一読者として言わせてもらえればそれは眺めている分にはとても楽しく、もっと苦しみながら書いてもらえれば良いと思うが、面白くもない文章を毎日書き散らしているだけでも、一応文章を書いている一筆者として言わせてもらえれば、書きたい時に書けば良いし、別に自分でこの文章は駄目だと思っていてもそれを皆に見せた所であなたが責められる訳では無いので、またそれも良いと思う。ネタが無い、書く文章が無いと言わせているのは、自分の中にある良い文章を書こう、人に見せられる文章を書こうという、素晴らしい心掛けが成している訳で、そういうことで悩んでいる人達を私は尊敬する。私は悩んでいないといえば悩むこともあるが、それでも毎日ちゃっかり更新してしまうだけの妥協もしていれば、苦しむことは嫌なので書くネタが無くなった時に書く予備のネタなんぞを仕込んだり、昔更新したネタをちょっとアレンジして更新したりもしていて、やはり職人気質では無く、文章の質や読み心地も毎回違ったりして、それは自分でもどうかと思う気持ちもあるのだが、私は自分に甘くそれを許してしまう。そもそもこんなに読みにくい文章だって、推敲しながら読みやすさを追求したりすれば、もうちょっと読みやすい文章も書けるのだが、私の怠ける気持ちがこの文章を書かせ続けており、そういう意味で私は駄目な文章書きであることは自分でも認める所だが、そんな自分の文章でも読んでくれている人が居るので有り難い限りである。
A-Remix Nation x UNGLAND
以前ご紹介したアニソンのハードコアRemixアルバム、A-RemixNationと、はたまた別のアニソンのハードコアハードコアRemixアルバムをリリースしてきたアンダーグラウンドがコラボして同時にアルバムを公開したのでそれらをご紹介します。
合計6時間26分36秒、トラック数75。「実力派トラッカー達の曲があなたのHDDを圧迫します。」
A-Remix Nation x UNGLAND 特設ページ
ここからDLできるよ!
アニソンのRemixはあんまり聴いていないのでこの曲がすごい!とか言えないのだけど、アニメを見ていない私でもなんとなくアニメへの愛が溢れるRemixだと感じるのでアニソンとかアニメが好きな人はDLすれば良いのでは無いかなと思います。。
7月06日 液晶保護フィルム
液晶保護フィルムというのはスマートフォン、携帯ゲーム機、その他諸々の電子機器の液晶が傷つかないように貼る透明のフィルムであり、液晶を汚れから守り、ある程度の衝撃が加えられたとしても液晶が傷つかないように守りとおし、最後にはボロボロになって捨てられる可哀想な役を受け持つ液晶を守る騎士のことであり、液晶を綺麗に保ちたい人が愛用するグッズの一つである。
今の御時世次から次へと新しい電子機器が登場し、それが見た目だけが変わっているのかと思いきや機能的にも大きく優れていたりするので、私もついつい新しいものを買ってしまうのだが、その時に古くなった電子機器の液晶の表面に傷だらけになりながらもしゃんと貼り付いている騎士を見て、どちらかというと吝嗇気味な私は、本当に私は君を雇うべきだったのかと悔やむ。液晶保護フィルムとは液晶を綺麗に保つ為のものなのであるが、液晶保護フィルムと液晶の間に空気が入り込むと気泡となって美しさを失うし、いくら0.うんたらmmの薄さであったとしても液晶を直で見るほうが綺麗だろうし、液晶保護フィルムは液晶の代わりに傷つきボロボロになっていくということで、液晶が傷つかないとはいえ、液晶保護フィルムが傷つけばもちろん見た目も汚くなっていくのである。もちろん液晶保護フィルムは液晶を守り抜いている為、汚くなったなぁ、と思った時に新しい液晶保護フィルムを買えばよいのだが、吝嗇気味の私は新しいものを買う時は現在使っている液晶保護フィルムが粘着力を失うなり、可視性が損なわれる程の汚れがつくなりするまでは使い続け、そのくせに世間体の目を気にしたりして新しい電子機器を買うのはやめない為、液晶保護フィルムを貼ったまま新しいものを買うことは多々あり、そんなことならば液晶保護フィルム等買わずにそのまま使ったほうが幾分かお得なのではないか、と思うのだ。
それでも私が液晶保護フィルムを買うのは愛である、というよりは、その製品を液晶保護フィルムを貼ることによって、なんだか大切に扱わないといけない気にする為である。液晶保護フィルムを買う、つまり電子機器の液晶を守ることだけにお金をかけることによって、吝嗇家の私は、この液晶に傷は何人足りとも付けさせん、といった気概を持つことが可能である、ということである。同じ要領で「テキストサイトを面白くする本」等という本があれば買うと、このテキストサイトを絶対に面白くしてやる、という気概を持てるかもしれないが、私の場合どれほど頑張った所でそこまで面白い文章が書けないことはわかっているので、時と場合を考えて、液晶保護フィルムを購入を検討されては如何?
7月05日 心頭滅却すれば火で焼け死ぬし
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言う言葉を胸に何度も「熱くない暑くない厚くない暑くない」と念じてみるものの一向に涼しくなる様子は無いので心頭滅却することは不可能と悟り、大人しく扇風機の電源を入れて「あ゛~~」ってやっておるのはいいものの、それでも熱い、暑い、熱い。試される北の大地北海道に避暑しに行きたい、と思いつつ絶海の孤島焼きソバ食べまくりアイランドにこもっております。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉の元ネタは「碧巌録」という禅の書物の一節、「安禅必ずしも山中をもちいず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」から来ていて、それを「心頭滅却すれば火もまた涼し」とう言葉に変えて有名にしたのは恵林寺の禅僧、快川紹喜。えりんじのぜんそう、かいせんしょうきと読むがよかろう。もちろんGoogleで検索しながら書いているが私は悪くない。そんで、その快川紹喜が宗教を弾圧して周ったので有名な織田信長に抵抗して、織田信長が怒って恵林寺に放火、その時に快川紹喜は「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と言って禅を組んだまま焼け死んだ、という壮大なお話しがあって、その根性にたまげた人達が今にも「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を残している訳で、つまるところ、焼け死ぬ。暑い。調べると実は快川紹喜の言葉じゃないという説もあるけど私は見なかった。
そもそも私は心頭滅却する方法よりも涼しくなる方法を模索するべきだと気づいたのは全てを調べ終わってからで、それで調べてみると皆電気を使う方法ばかり挙げているので、吝嗇家の駄目な私には実践不可能であり、仕方がないので図書館に行ったら、碧巌録〈上〉 (岩波文庫)が置いてあって私は心頭滅却して涼しくなった。
7月04日 文字列アレルギーの人に捧ぐ、後方かかえ込み2回宙返り1回ひねり読書法
私は本が好きな普通の人なのだが、本を全く読まない人からすると読書家だ、すごい、やばい、等と適当なお世辞を言われ、何故か周りではとんでもない読書家という噂が広まってしまい、何故かオススメの本を尋ねられたりして困り果て、そこから化けの皮が剥がれ皆を失望させた過去を持っているのだが、この件に関して思うのは化けの皮を被ったのではなく、気がついたら被せられていただけであり、私はどちらかというと可哀想な部類に入るはずなで、同情、励ましの声等待っております。その時に、「本が読みたいのだけど何から読めばわからないし、読みたいという気持ちはある一方で実際に文字が並んでいるのを見ると読む気が失せる」と相談された時に、私が適当に言ったアドバイスが上手くハマったらしく、その後私よりもはるかに読書家になった友人が居るので、その時のアドバイスを思い起こしてここに記す。
重々しく書いたがすべきことは少ない。買う。読む。これだけ。それができねぇんだよ、って人の為に書いてるのでもう少し詳しく書くが、とりあえず買うべし。本を読みたいと思っているならばとりあえず本を買う。読みたくないならこの記事も読む必要は無いので、時間を無駄にするのが好きな物好きな方は以後も読み進めるとよかろう。家に読みたい本があるならばそれでよし、本は読みたいけれど読みたい本が無い、という人は読書のスライム的存在の星新一でも読むと良いのだが、少しでも気になる話があるならばそちらを優先すると良いし、とにかく気になる、読みたい、といったモチベーションが大事なのだと思う。少々高額だと思ったならばブックオフ等の中古本を取り扱っているお店に入って100円均一の棚を物色すればわずか105円であの名作もこの名作も買い放題。吝嗇家のあなたにも財布が寂しいあなたにもオススメ。ちなみに私はというと、文庫本を買って気に入ったらハードカバー本を買い文庫本は布教用にするという、コレクター精神の元で本を購入しているので参考にしないほうが良い。
次は本を読むだけなのだが、ここで文字列アレルギーが発症してしまう人が多いようだ。そういう方は言葉の意味を理解しようとしすぎる完璧主義者的な性格の持ち主が多く、読書といえば辞書が必要である、といった人まで見かけたことがある。そうなると読み終えるまでに力尽きてしまうので、言葉の意味がわからない時は読み飛ばしながら、また読み飛ばした所を気にもとめず、私にわからないような言葉を使うこの本を書いた奴は阿呆である、伝えるべきことを伝えなくてなにが小説だ、阿呆め、と作者を罵倒しながら読み進めると比較的ストレス無く過ごすことができる可能性があるので、周囲に村上春樹ファンが居ないか確認しながら村上春樹をディスると良いだろう。言葉の意味等関係無く文字を読むのにつかれてしまう、という人も多いのだが、そういう人は常に本を肌身離さず持ち歩くと読者が捗る。具体的には例えあなたが読んでいる本が六法全書のような分厚い本であったとしても、「読書用意!」と言われたら即座に本を取り出せるようにしておくということであり、それが例え風呂であろうが電車の中であろうが命の危険がある場合だろうがノストラダムスの大予言で明日世界が滅亡するらしい状況に陥っていようが関係無く本を近くにおく。それさえしておけば、本に愛着を感じ読まずにはいられない所か、本のほうもあなたに愛着を持ってくれ、風呂の中ではふやけ、電車の中では隣の人が眠りこけてもたれかかってきた時その人を殴る時に手を痛めずに済み、あなたの心臓を狙う弾丸を受け止め、世界滅亡で世間が騒々しかったとしても本の世界へ逃げ込める、という素晴らしい効果が期待できる。本を読まなくなる人は大抵の場合、本棚等に仕舞いこんでしまって「また明日読もう」と考えていたのがいつの間にか「いつブックオフに売りつけよう」という考えに変わってしまい永遠の別れを告げる羽目になる。逆に言えばあなたの周囲の人が、奴は常に本を肌身離さず持っている読書家だ、と思い始めれば後はその期待に応えるしかありませんから、世間の目があなたの読書を助けてくれるという素晴らしきこのシステム。更に言うと読書が好きな友人と共に同じ本を読み始めれば「どこまで読んだ?流石に太郎君が『振り片腕支持5/4ひねり単棒倒立経過、軸手を換えて後ろ振り片腕支持1回ひねり支持』でカマンベールチーズケーキを倒す所までは読んだよね?倒した後の太郎君の伸身のコスミックと伸身のトカチェフの違いについて語るシーンは感涙モノだったよ。全米が泣いたってやつ?」等と熱く語り始め、読んでいないあなたは「う、うん。涙目になった、本ってすごいね。」と、はぐらしつつ時間を稼ぎ、トイレに駆け込んで内容をチェックせざるを得ない状況に追い込まれるのでこれもオススメできる方法である。家に引きこもっているあなたは本を読みましょう。つまり、本を肌身離さず持ち歩く、ということであなたも本を読むことができます。否が応でも。
簡単にまとめると、お好きな本を今すぐ購入し、肌身離さず本を持ち歩いて本を読みましょう、ということ。本を読みたいなぁ、と今少しでも思ったあなたはすぐに実行すべきである。30秒後には今日の晩御飯を考えているとも考えられるからである。と、ここまで書いておいてようやく気づいたことがあって、それは本当に読者が嫌いな、文字列アレルギーの人がこの文章をここまで読んでくれているはずが無いということである。読んでくださった読書好きの皆さんありがとうございます。
7月03日 建設的な議論の為に
議論とは何か、と考えた時に討論やら議決やら色々あるが、何か一つのテーマに対して意見を出しあい、互いの理解を深めたりそのテーマについての新たな考え方を模索する為にやることの対話形式についての考えたこと色々。大方の人が聞いたことがあると思われるが、もう一度自分への戒めとしても書きたくなった。
議論の目的は上に書いた通りである。多々ある失敗が、相手を論破しようと躍起になってしまったり、全員同じ意見に同意することをもとめてしまうことだが、対話形式の議論では必ずしも全員同じ意見に統一される必要は無く、多様性を保持したまま議論を終えたとしてもなんら問題は無い。相手の意見の論理的な矛盾点やちょっとした違和感を突いて相手の意見を否定しがちになるので、そうなっていないか自省すると良い。とはいえ、もちろん全員の意見が統一されるほうが、議論としてはより有意義だと思われる。また、議論をする時の前提として、あるテーマについて複数の人が違った意見を持っている場合にのみ議論をすべきなのであって、全員が同じ意見を持っている場合には議論をする必要は無いし、もしり仮に議論の途中で全員同じ意見になった場合はその場で議論を終了すべきである。同じ意見を持ったと互いにわかっている人達が、自分の意見を出してそれに賛同することになんの生産性も無い。後注意しておくべき点が、議論をする場合は共通の「絶対に正しい」とする前提を共有しなければお互いに理解しうる議論にはならないということ。だから、議論を始める前に互いに前提を共有しているか、ということについても留意すべきである。
議論で最も大切なことは、「相手の意見を尊重し、出来る限り相手の考え方を理解しようとする」ことである。仮に相手の意見に論理的な矛盾があったり、具体例が不適切な場合でも、少し考えてみれば「相手が伝えようとしていること」は推測できる可能性が高い。相手を理解しようとせずに議論に望むのはもってのほかであり、相手がどういう風な理由でその意見を正しいとしているのか、といったことは常に意識して考えたほうが良い。
では具体的なことを言ってきたが実際に議論を進めるにあたり注意すべき点をgdgdと。
議論は「問題提起」があり、それに「質問」が出てくるので、それについて「回答」することで進行していく。そこで質問が出てこない場合は全員が同じ意見であるので議論をする必要は無い。質問をする際の注意は、その質問は問題提起のどの部分について疑問を持っており、どの部分は納得しているかということを明らかにすることで、質問を受けて回答する側もそこが怪しければ確認しておいたほうが良い。お互いに納得していることにも関わらず勘違いで議論を続けるなんてこともあって、素晴らしく無意味な時間を費やすことになる。それに「回答」する場合には必ず理由を書く。質問をしているということは、何かしらわからない所があるからで、それをわかるように導くのが回答である。議論している相手は敵では無いので、「どうして相手はそう考えているのか」という相手の意見の土台部分を意識して質問したり、回答すると相手に伝わる文章が書きやすいと思われる。自分の意見を述べている「問題提起」と「回答」をする場合は、自分の目的が相手を論破することになっていないかということに注意すべきだろう。そして、議論を通して何を得るのか、議論を有意義なものにできたのか、という点に注意して、相手の意見を理解することが重要である。つまり、議論は勝ち負けでは無く、議論は自分の意見を相手に言うよりも、相手の意見を聞き、自分のものにするか、相手の意見に納得できなかった場合はどうして納得できないかを考えると良い。相手の意見に納得できたということは、より優れた考え方を身につけたということなので喜んでよろしい。そして、議論においては自分の意見に正直になることが大事で、例え皆が納得していたとしても自分が納得していなければ正直にそのことを言い、どこが納得できていないかということを出来る限り説明したほうが、その議論が建設的なものになりやすい。
長く書きましたが、「何のために議論をしているのか」ということを意識して、「相手の意見を理解すること」を留意してさえおけば、良い議論が出来ると思います。
追記:後でググってみるとなんかすごくわかりやすい説明とかあって、私の文章なんぞ読む必要すら無いのでこちらをどうぞ。
やる夫で学ぶ議論のしかた
7月02日 対ステルスマーケティング
ステルスマーケティング、略してステマが世に広く認知し始めてから、インターネットのレビューなんて信用できないという風潮が高まり、今やどんな感想を言ってもステマステマステマと外野がうるさく、ネットのレビューサイトは惨憺たる有様である。もうネットの情報は一切あてにせず己が信じるものを楽しむ、というのも一つの手である。それももちろん結構、新たな価値観を育む機会やら色々逞しく育つことができそうなので素晴らしい選択肢の一つだろうが、私達がネットのレビューをどうして見るのかと考えた時に、そのレビューされているモノを自分が購入する費用ないし手に入れる手間暇が惜しい、というかそういった費用や手間をかけるならば確実に面白いものが欲しいのでレビューを見ているハズなので、今回はレビューに一切頼らないという選択肢は除外して、かつステルスマーケティングと格闘する手段を考えてみた結果をぐだぐだと書き散す。
さて、とは言え、そこに書いているレビュー達が本当に正しいのか、そんなものはわからない。いくら高い評価をしている人数が多かろうが、会社がお金を奮発すれば星5だろうが100点だろうが何人でも出せるので、一切信用出来ない。そこで私がオススメするのは、レビューの中で信用できる人を探す、というもので、実際にどうするのかというと、レビューサイトで、自分が共感できるレビューを選び出し、その人の、その商品以外のレビューを見てみて、自分と趣味が合うか吟味し、もしも合ったならばその人を徹底的に信用して買っていく、という方法である。まぁ重要なのはその吟味方法であるが、もし仮にこの人がお金を貰ってこのレビューを書いていたとしても納得できる、というぐらいに共感できる人を探し出せば問題無く対応出来るのに加え、この方法だと自分の知らない商品にも手を広げることができる、というのはその人がレビューしている他の商品も自分が好みの可能性が高いからだ。自分と感性が似通っている人を探し、その人のレビューに依存する、というのはステルスマーケティングが氾濫しているこのご時世には結構有用な方法になるはずだ。ざっくりまとめると、「信頼すべきは人数や世間の雰囲気ではなく、個人である」ということである。私は大分前からどっぷり信頼している人が居て、その人はオプーナを高く評価した粋な人で、私は彼に全幅の信頼を置き、基本アニメも見ない人なのだが、その人が稀に面白いと言ったアニメ等は見るようにしており、今のところ全部おもしろかった。もちろん自分が欲しいモノのレビューはどれもこれも信用ならない、という場合は自分の直感を信じて買うか、ステマかもしれないが数に頼るかすれば良いと思う。だが、この特定の個人に依存するという方法はステルスマーケティングとは無縁の境地にたどり着きやすく、一人見つけてしまえばずっと依存できるのでオススメです。
7月01日 あたしってフォント馬鹿
フォントは本当に素晴らしい。フォントを変えただけで、本文の読みやすさからサイトの雰囲気までガラリと変わる。弘法は筆を選ばず、というが、弘法は筆を選べないような環境に立たされても上手い字を書くだけであって、普段の弘法は自ら厳選した最高級の筆を使っているに違いない、と元来思っていて、私の場合は書いていることが殊更素晴らしい訳でも無いので、また読みにくいと専らの評判であるから、フォントぐらいは拘って綺麗にしてみたのだが、如何でしょうか?
まだテスト段階だが、今のところと新ゴシックのライト(細い)か、レギュラー(普通)を使おうと思っている。今回の日記はCSS側のフォント指定でなく、htmlに直接cssを記述しているので、後から見てフォントが変わっているということが無い。色々フォントを設定してみて、見やすさのテストも兼ねている。今回の文章、ここまで新ゴシックLightだが、次からはRegular、少し太めにしてみるが、どちらが見やすいか比べてみて欲しい。
ここからRegular、どちらが読みやすいでしょうか?さて、ある程度長文を書かないと読みやすさを比べ用が無いので、色々書いていくのだが、そもそもにして、私はテキストサイトに興味を持つ以前からフォントが好きであって、ついこの間迄私はライトノベル等を読んだことがなかったのだが、本屋さんでライトノベルの本棚の前の平積みにしている所でライトノベルの表紙を眺めるのは結構好きで、というのもライトノベルの表紙はフォントに拘っていることが多いからであり、少し変わったフォントを見かけるとネットで検索したりしてみている。有名所を紹介すると、「さくら荘のペットな彼女」の「ペットな彼女」の部分は、「はるひ学園」というフォントで、現在の、今この文章の書体がはるひ学園で、他にも「我妻さんは俺のヨメ」、TV版の「花咲くいろは」にも使われている。他にも、A1明朝、これは「鳩子さんとラブコメ」、「僕の小規模な奇跡」「魔法少女育成計画 restart」「恋染紅葉」、そして「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」等に使われている。通常の明朝体ではこれといった印象を与えないが、A1明朝体は「ニュアンス系明朝体」と呼ばれる明朝体で、墨溜まりやにじみもデザインし、少し骨格を工夫したりして変わった印象を与えてくれるフォントとなっている。最近のお気に入りが「俺がお嬢様学校に庶民サンプルとして拉致られた件」であり、「俺」と「件」は「リュウミン U」が使われており、他のフォントが丸ゴシック系なのに対してこの二文字だけは明朝体で、多分主人公の「俺」の性格やらを表していると思われ、
「嬢様学校」「庶民」「拉致」の漢字は、「ソフトゴシック B」が使われており、多分お嬢様学校のお嬢様の柔らかさであったりを表現しており、
「お」「に」「サンプルとして」「られた」の文字は「ららぽっぷB」というフォントが使用されており、これもまた丸々しく、どこかあどけなさを感じるフォントなのだが、かな書体の為webフォントには無かったので、大分雰囲気は違うが「那欽」というフォントで代用した。
このように、フォント一つとっても表現の幅が広がるので、本屋さんでは少しフォントに注意してみて欲しい。ちなみにどうでもいいが、フォントを日本語にすると書体で、字体では無いことは触れておきたい。なんか、個人的にフォントのことを字体といわれると、すごくむずむずするというか、まぁ、伝わっているのだが、違うからな、でもいちいち言うのもなんだかな、と遠慮してきたので、この場を借りて言ってみた。スッキリ。
しかし、私がホイホイ使っているこのフォント達だが、実はべらぼうに高く、日本語のフォントは安くて1万円からで、それが太さ別に7種類ぐらい用意されており、7万円ちょいするのは当たり前である。だが、この文字は一つ一つ「人が」デザインしており、言ってみれば芸術品である。そのことを考えればなんとも安い。とは言うものの、もちろん私にはそんなお金は無いので、モリサワの年間パスをコネで使わせてもらったりしたりしているのだが、なんとも憧れる。私が大富豪になった暁にはフォントワークスのフォントを全て自由に使いまわしたりしてみたり、「きざはし」や、「筑紫オールド明朝」や、「毎日新聞明朝Pro」なんかを入れて自分の好きな言葉を並べてにやけたりしたいものだ。
なんだか締まらないので、Typesquareのフォントシュミレーションの例文を、「UD黎ミン R」でお送りして締めたいと思う。
人はずっと昔から、言葉を話、文字を使うことによって自分が得た知識や考えを他人に伝えてきました。
とくに文字は、時間や場所を超える情報の伝達手段として発展してきたのです。
かつて石に彫られたり、木に筆で書かれていた文字は、やがて木版や金属活字で印刷されるようになり、写真植字を経て、現代ではDTPシステムによるデジタルフォントが数多く使われるようになりました。
長い年月のなかで、テクノロジーやメディアの変化など、さまざまな影響を受けながら、文字はそのカタチを変えてきたのです。
時代が変わりメディアが変化しても、文字を通して「誰かにメッセージを伝えたい」という目的や、そこに「送り手」と「受け手」がいることは変わりません。
では、どうすれば伝えたい相手に、より確実に自分の思っているイメージでメッセージを届けられるのでしょうか?
そこで重要となるのが、文字の使い方です。なかでも、多くの人に読まれる印刷物などの文字に対しては、「読みやすさ」や「美しさ」が求められます。
これもまた、いつの時代にも変わらぬ本質でしょう。
そのためには、メッセージの性質、伝えたい相手、読まれる場所の状況などを考え、それぞれのケースに合わせて書体や文字の組み方を変える必要があります。
そのように、文字を自在に操ることで、文字による豊かなコミュニケーションが可能になるのです。